廣徳寺縁起

廣徳寺縁起 廣徳寺誌より(昭和31年発刊)

禅宗は臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)永平寺・総持寺、黄檗宗(隠元)万福寺

臨済宗 14派 大徳寺、妙心寺、南禅寺、東福寺、建仁寺、相国寺、天竜寺 以上京都
建長寺、円覚寺 以上鎌倉 国泰寺(富山県高岡市)、向嶽寺(山梨県塩山市) 方広寺(静岡県奥山村)、永源寺(滋賀県永源寺村)、仏通寺(広島県高坂村)大徳寺 開山 正和四年(1315年)
大燈国師(国師号は花園天皇が贈る)後醍醐天皇により五山一位
応仁の乱で全山焼失したが、一休禅師が復興し、織田豊臣の庇護を受け、江戸初期には沢庵を輩出し栄えた。江戸中期 臨済宗から白隠が出て、禅宗全体を再興させた。
今も洛北紫野に七堂伽藍を配し、二十余の塔頭。大徳寺の末寺は204寺。(昭和31年)

廣徳寺 大徳寺東京出張所兼務 禅の修行寺として400年間世襲制を採らず、妻帯せずご住職は一代限り。開山以来歴代のご住職の多くが、大徳寺管主の経験者が送られてくる。諸事決まり事の中に、①檀信徒規定 ②圓満山壁書 *禅宗では達磨の壁観「生壁の切り立った」如き注意書きを尊ぶが、廣徳寺にも独自の壁書が設けられている。徒弟を教育する上での日常の心得を記し、14条からなる。
著名な檀家 加賀前田家、富山前田家、大聖寺前田家、会津松平家、柳川立花家、三池立花家 柏原織田家、園部小出家、谷日部細川家、安志小笠原家、日向秋月家、赤穂森家、 大和柳生家、肥前松浦家、徳島蜂須賀家、安芸毛利家、鶴岡酒井家、桑名松平家 小倉小笠原家、長嶋増山家、仁天寺市橋家、曽我家、親見関家、松代真田家、小室小堀家、加賀爪家、小堀家、金森家、水野家、小倉家、小笠原家、阿形家、滝川家、大河内家、桑山家、松浦家 以上

*塔頭とは 昔大名の法要は、逮夜(命日の前日)に寺に参詣し、本坊で宿忌(逮夜法要)を営み、
宿院に帰ってその夜は泊まる。翌朝は宿院和尚の粥斎を食し、当日の大法会を本坊で厳修するので、名実ともに宿坊であった。

開山 元亀二年(1571年)箱根湯本 明傁和尚(大徳寺113世)
但馬出石の出身 俗姓 福冨。明治になり二十七世槐蔭和尚より福冨姓を名乗る。以降現和尚は先代の養子に入り福冨姓を名乗ることになる。現ご住職 福冨海雲和尚様も同様。
小田原北条氏に庇護されるが、天正十八年(1590年)北条氏滅亡。
翌年(1591年)家康に江戸へ招かれる 今の神田正平橋に庵を築く。
三・四世時代34年間で塔頭5院(徳雲院、桂徳院も含まれる)建設。
寛永十二年(1635年)下谷に移る 第五世琢玄和尚時代には塔頭12院。
以降 「恐れ入りやの鬼子母神・びっくり下谷の廣徳寺」と隆盛を極めた。
最盛時 15塔頭 寺域3万坪と伝えられる。200年間 諸藩主、旗本の為の寺として栄えた。
庶民は僅かに塔頭を菩提寺とした。江戸の臨済宗大徳寺派三刹は 品川・東海寺(沢庵和尚)、渋谷詳雲寺と廣徳寺。しかし幕末 文久二年全山焼失し、四院(徳雲院、桂徳院など)を残すのみとなった。
周囲の寺域も奪われ削り取られ、明治20年頃明治政府が伯爵以上は神道に宗旨変えを命じられ、廣徳寺から去り、経営的な大打撃を与えた。(加賀前田、熊本細川、阿波蜂須賀など)残ったのは子爵・男爵など分家や小藩のみとなる。明治18年任に就いた二十七世英傁和尚、二十八世龍瑞和尚が苦心の、二十年計画で漸く往年の姿を取り戻した矢先、大正12年9月 関東大地震が襲い完全に灰燼に帰した。また寺宝も全て失われた。当時の寺域は6000坪。東京市の要請に伴い、境内の大部分を下谷区役所(現台東区役所)、下谷小学校、上野警察署として譲渡。因みに豊島園通りの十一カ寺は直ぐ近くの今の上野駅構内に当たる地域にあった。一緒に練馬に移ったことになる。

*台東区役所の敷地の一隅に、三十世雪底和尚が300年続いた上野の地を離れるに当たっての感慨を詠った七言絶句が大石碑に刻んである。また台東区役所ロビーには興味ある資料(江戸時代の街並みと現在の街並みが重ね合わせられる仕組みに印刷されている)が展示されています。是非ご覧ください。
また廣徳寺はじめ当時の資料は、台東区中央図書館(浅草合羽橋)に集中して保管されています。

練馬に2万余坪の土地を購入し、大正14年 3 月移転開始。練馬では墓地の改葬、別院の建築に着手。二、三の村民の反対に合いながら建設を進めた。設計は遠州流に拠り、檀家である十二世小堀宗慶氏が力を尽くした。先ずは昭和2年円照院が落慶した。昭和5年方丈、庫裡、山門、鐘堂、塔頭などが完成。こうして5か年計画が完了した。下谷には前田家の大書院を移し本堂とした建設も完了したが、 昭和20年空襲は熾烈を極め、官庁建築物保護のため、周囲の建物疎開命令が出され、下谷に残っていた廣徳寺全山練馬に移った。終戦後7年経ち漸く再復興の運びとなり、あしかけ70年余り費やして完成した。昭和45年には大書院、久邇宮家の中書院、両家の茶室も移築し今日見られる伽藍がほぼ完成した。二十八世竜瑞和尚、二十九世以清和尚は廣徳寺再興に一生を尽くした。戦後の農地解放の影響を受け不本意ながら縮小し、現在は1万坪。檀家総代は現在柳生家で大名家末裔が担うこととされている。築山が庭園づくりの最後の工事であった。練馬の古老が良く言う「廣徳寺の牡丹園」は現在の築山の位置にあった。海雲和尚様は大名家の墓地の一角に牡丹を増やす予定で、隣の近衛家のそれと並びさぞかし見事な光景がやがて見られるようになることを期待したい。

練馬区指定四景観 ・山門に至る楓に覆われた参道 ・大名家の墓石群 ・孟宗の竹林 ・茶畑

改葬余話
大名の墓は形式が殆ど同じ。敷地1丈から2丈四方に対し、6尺から9尺の石の唐戸(墓石の基礎の部分)でその中に檜3寸厚み程の二重棺があり、石との間に石灰が詰められていた。木棺の中が甕で、男なら裃、女なら白いしょうで正座している。発掘品には刀剣、手箱、印籠、香道具、手回り品、素焼きの土偶も多数。平戸藩主松浦候の墓には 7 人の殉死者が両脇に葬られていた。会津松平家は贅沢な金蒔絵手箱、小堀家は茶碗、茶器。柳川立花家からは金時計数個。金沢前田家は震災前に改葬し本国へ棺を開けずに移送したので不明。柳生家三代目宗冬(又十郎)からは上下の入歯で世界的にも最も優れた義歯との評価がある。

禅宗十禁戒
一、 不殺生戎 生物を殺すな
二、 不偸盗戎 他人の物を盗むな三、不貪媱戎 邪に媱するな四、不妄語戎 偽りを言うな五、不醰酒戎 酒を飲むな
六、 不説過戎 他人の過失を言うな
七、 不自讃毀他戎 自を褒め他を貶めるな
八、 不堅法財戎 法財を惜しむな 九、不瞋恚戎 怒るな
十、不謗三宝戎 仏法僧の三宝を誹謗するな

座禅の要諦身体、呼吸、精神を整え
一、 悟を得よう、仏になろう、救われようなどと考えず是非善悪の相対的判断を止め、専ら意識の統一につとめる。
二、 無常、無我観に住し、一切の執着を離れる。
三、 常に仏心は大慈悲心なることを念じ、仏心をもって自己の心となす。

座禅の効果を求めて座ることは座禅の邪道であるが、正しい座禅の結果生ずるものは次の如くである。
一、 規則正しい生活を営み、些細なこともゆるがせにしない。
二、 物欲を制限し、世事に煩わされることを少なくする。
三、 飲食の適量を知り、健康を増進し、正しい判断と行動が生まれる。
四、 睡眠をむさぼることがなくなり、頭脳が常に爽快な状態にある。
五、 騒がしい処にあっても、静けさを保ち、焦燥することがない。

ご住職 福冨海雲老師
昭和12年、宮崎県のお生まれ80才。身体も気持ちもお若く、かくしゃくとしていらっし
ゃいます。若くして九州一の厳しい修行寺「梅林寺」で過ごされました。二十代で生涯独身で仏道に帰依することを決心されました。広徳寺で過ごされて32年になります。昭和60 年ご住職に就任されました。普段は作務衣で過ごされています。寺男と間違われることも? 自室耕雲亭で過ごされています。つい最近富士山にそっくりの大きな自然石を、縁があって入手され、本堂横の大築山の頂上に据えられました。どの方向から見ても見事に富士山の風格。「いくら眺めても飽きないんだよ。深く胸を打たれる」と感慨深げで、折しも12世小堀紅心宗慶宗匠の月命日でした。今年5月24日のことです。これで全て伽藍作りが終わったと大変お喜びです。16歳になる愛犬「黙念」と穏やかな生活と言いたいところですが、突然道路問題が持ち上がりました。「先代から35号線の話は聞き及んではいたが、まさかの気持ちだ。先代の遺言は絶対に土地を譲ってはならない、もしもの時は都、区を相手に裁判を起こしても戦えと言われている。檀家は勿論、全山、全臨済を挙げて反対する覚悟だ」とのご決意。この道路が修行寺の宗教活動の死命を制するとご認識です。たいへんな犬好きで、愛犬「黙念」の墓は海雲和尚の入る予定の墓の脇に設けてあります。拝観の折にはご覧ください。「黙念」とご住職との胸打つお話は「名刹広徳寺お犬騒動記」に描かれています。お寺の自費出版です。有償で分けて頂けます。

*梅林禅寺
九州久留米藩 有馬氏の菩提寺 厳しい修行寺として知られる。どこの寺であれ三年修行すれば僧侶になれる現況では、同寺の門を敲くには気力が要る。妙心寺本山僧堂(京都)、正眼僧堂(岐阜)と合わせ三鬼僧林と言われる。一般に開放しておらず、朱印も無い。代々世に名僧を送り出している。梅林寺の専門道場では毎年11月30日夕刻より12月8日早朝までの八日間寝具に休むことなく不眠不休で厳しい修行に掛かる。命取りの接心とも言われてきた。境内には梅、久留米ツツジが見事で市民に親しまれている。
尾形光琳、長谷川等伯の襖絵もあるが、寺院内は非公開。

平成29年記 文責任者 神津眞久